ぷーさんのハニーハント

壁にぶつかったことでアドラー心理学に出会いました

20代が終わる。

今日で20代が終わります。
明日から30歳!

何となく想像していた30歳は、
これから自分が何を目指すかしっかり決まっていて、終わりを思い描けている状態。
目標へ向かってあとは進んでいくだけ、という状態でした。

しかし実際の私はまだ迷走中。
30歳で転職先を探していて、道が定まるどころか
より一層、これまで以上に路頭に迷ってる!!!

夫婦関係も仕事も、もう一つの難問も、
うまくいかなくて情けないなーと思いながらブログを振り返っている時、
これを見つけました↓

www.chihiromuto.info


上司から「もし何も制限がないとしたら何がしたいか?」
と昔聞かれて答えた、

・仕事を辞めたい
・二人目の子供を考えたい

仕事は辞めたというより辞めさせられたという表現が正しい。
子供は夫婦で前向きになれたというより、
本当に偶然の奇跡的に授かっただけなのですが、
どちらも自分が望んでいたことが今実現されていたんだと思いました。

徐々に後退したような20代でしたが
ブログを振り返って、少し自分の成長を感じることもできました。

会社の人、家族、友人、先生方に改めて感謝です(^^)

30代は周りの人と幸せになれる自分になりたい。
他者も自分も愛し、受け入れ、真っ直ぐな生き方をしたい。
頑張ります。


これでこのブログを辞めることにしました。
ありがとうございました。

大浴場は苦である。でも、感謝しなければならない。

先月、2泊3日で家族旅行へ行ってきた。
旦那セレクトの旅行。

初日は普通の新しいホテル。(大浴場なし、綺麗なユニットバス)
2日目は、昔からあるような大きい旅館だった。(大浴場の温泉あり、部屋のお風呂はno comment!)


私は大浴場が大嫌いだ。
でも2日目の旅館では部屋のお風呂に入る意欲が湧かなかったため、大浴場へ行くことにした。

今回の大浴場でも全てにドキドキして入浴どころではなかった。

脱衣場の全て、浴場に入る出入り口にある足のマット、洗い場の椅子やシャワー、
浴場の床、浴槽の中、天井から時々落ちてくる雫。
とにかく全てが苦手だ。



身体を洗い、浴槽で温まり、再度身体を洗って脱衣場へ行こうと、
浴場と脱衣場への通路でこれから踏まねばならないマットを凝視しながら身体を拭いていた。

その時、腰が曲がった清掃係のおばあさんが妊娠中の私に、
「お腹大きいから滑らないように気をつけてね。
 私もいつも怖くて足元見て歩いとるのよ。」

と声をかけてくれた。

その言葉を聞いた時、大きな衝撃を受けた。
青天の霹靂とはこういうことなのだろうか?

なぜ私は、大浴場を管理してくれている方達の気持ちを考えていなかったのか…
感謝していなかったのか…
おばあさんがかけてくれた温かい言葉で反省した。


感謝の気持ちを忘れなければ、
何かの試練としか思えない大浴場の通路も負の感情だけで歩く必要はなくなる。
これからは自分が余裕がないほどに嫌な感情を持った時でも
それに関わってくれている方の気持ちを必ず忘れないようにしようと思った。



それでもわざわざ行く旅行はなるべく綺麗なところに泊まりたい…
旅行の手配をしてくれたお礼と共に、かなりオブラートに包んでもう少し綺麗な所が良いと伝えた(・・;)

愛とは何か? ラストダンスは私に

好きとはどういう意味か?
愛とは何か?

物心ついた頃からずっと疑問に思ってきた。
子供の頃の自分の恋愛、両親の結婚生活と離婚…
両親以外の夫婦やカップルの在り方も見ながら、
どういう関係が自分の理想か、幸せそうか、子供ながらに考えていた。
当事者同士は楽しそうに見えても、周りが気を使うような関係であれば、
それは私にとって理想の関係とは言えず、反面教師でしかなかった。

大人になった今でも、愛の意味をまだわからずにいる。
なんとなく、愛とは自分の幸せよりも相手の幸せを願うことであり、
そして相手の幸せが自分の幸せにもなることだと思う。
でもそれがなかなか難しい。私にはできていないと言い切れる。

私には自信がない。
自信がないから、パートナーの愛情に不安を覚える。そして、パートナーが関心を寄せる人に嫉妬してしまう。
信頼しようと思っても、信頼できない自分がいる。
嫉妬してしまう理由や自分に関心がないと思える理由を見つけようとし、実際に見つけてしまう。
そして、やっぱり私は愛されていないのだ、自分も彼を愛せていないのだと確信する。
全ては恋愛で失敗した時の言い訳にするために自分で作り出したものだとアドラー心理学では考える。
おそらく、彼は自分ではない別の人を愛しているという事実を受け入れるより、
自分に至らないところがあるから恋愛、結婚がうまくいかなかったと考える方が私には楽なのだ。

自分の好きな人が、自分以外の人と一緒にいて幸せであればそれを喜べるのが愛。
愛を知る人は、自分自身よりも愛する人の幸せに関心がある。

アドラー心理学で考える愛もまた、子育てや社員教育以上に難易度の高いものだった。
根底は何も変わらないのだが。
アドラー先生は、至極真っ当な、そして厳しすぎる考えを教えてくれる。

愛する人が選んだ人生を、今選んでいる人生を私は尊重したいと思う。
私といることを選択してくれるならそれは嬉しいが、そうでなくても彼が幸せならそれでいいと思うのだ。
(浮気しても、キャバクラへ行っても、風俗へ行っても、本気で別の人を愛しても、何をしてもね!)
↑アドラー心理学の解釈、合ってる?

アドラー心理学で考える愛し方ができるかは別として、違和感はすっきりした。
これが私の考える愛だから、愛しているから、彼の選択も生き方も受け入れる。
愛されることを求めるよりも、愛せる人間になれるように頑張ろうと思います。

Win-Winなのか?人生はシンプルなのか?

転職することになった。

来年出産し、約一年の育児休暇を取った後、少し今の会社に復帰して辞めるか、そのまま辞めることになるか、どちらかになる。

どちらにしても、今の会社で働かせてもらえる期間はそう長くはない。

 

今回育児休暇を取得するにあたり、当初は育休を取ることができないという会社の判断で、納得することもできず、抗議するほどの気力はなく、旦那からは少し責められ、疲れてしまった。他人のせいにしながら、自己責任として自分を責め、何が正しいのか、何を信じて良いのか分からなくなった。どんな理由があろうと、完全に自分の力不足、努力不足だったため余計に疲れた。

 

自分の性格の特性上、1日の中で自分でもコントロールできないほどに気分が上下することがある。下がった気持ちをプラス思考で切り替え、でも落ちて、また上げて、落ちて、を繰り返す。最近は切り替えが上手くできない。今日、育休を取得できることになったと上司から伝えられた。前向きな会社の判断(これまでの労が何とかの最大限の配慮との説明)を聞いても、不思議と何の感情も湧かなかった。今回育休を取得できるよう助けてくれた上司達、そしてこれまで育ててくれた上司達にはもちろん感謝している。困難をいくつか経験させてくれた会社のおかげで、精神的に成長できた面もある。感謝しているなら産休までの数ヶ月、一生懸命やりたいのだが、何故か頑張る気になれない。切り替えようと思っても色んなことが引っかかり、さらに思考停止してしまうためやる気が出ない。

 

何故なのだろう?

今回、会社と私はWin-Winの選択をしたように思う。一つ一つ考えれば私はWinなのに、Win?と疑問に思う。そもそもコヴィー先生のおっしゃるWin-Winって何なのか?今回は会社にとっても私にとっても、WinでもあるしLoseでもあると言えると思う。こうなるとNo Dealを選択したことになるのか?

 

アドラー先生は人生はきわめてシンプルだとおっしゃる。人生を複雑かつ困難なものにしているのは自分自身であると…

本当に人生はシンプルなのか?

 

「この会社を選んで、自分の人生本当によかったのか、今でも疑問に思う」と、私への配慮を会社へ要求してくれた上司から今日聞いた時、何とも複雑な気分になった。助けてくれた理由が少し分かった気がしたのと同時に、失礼な位置からの視点かもしれないが、そんなふうに思ってほしくないと思った。

 

きっと人生は自分の捉え方次第でシンプルなのだ。これまでの人生に反省し、それ以上に感謝し、自分を少しは認め、頑張っていきたい。

想像できるはずもない人の気持ちを考えること

 

眞子さまのご結婚について思うこと。

見ないようにしていたYahoo!ニュースのコメント欄を見て

酷い言葉を書いている人が沢山いることに驚いた。

 

国の税金の無駄遣いだとか、結婚を取りやめるべきだとか…

時にはご両親の人格を否定する言葉も書かれている。

Yahoo!ニュースにコメントする人に、こういった考えが多いのか、

全体的にこういう意見なのか???

 

持参金について調べてみた。

皇族であったものとしての品位保持のためのお金らしい。

眞子さまだと一億円以上の持参金となるようだ。

ちなみに絢子さまでも一億円以上。

知名度に比べて、同時期に話題に上がったお二人の差がほとんどないことに驚いた。

 

なぜ一億円程度の税金で、反対する人が多いのだろう。

国民の数は一億人を超えている。

そう考えれば眞子さまのご結婚に対して、一人一円負担するだけだと思うのだが…

(実際にそんな単純計算ではないこと別として)

 

眞子さまは自ら選択して皇族になったわけではなく、生まれたのがたまたま皇室だった。

生まれた時からずっと、お金に苦労はしていなくても

自由に暮らせるわけではなく、

お金持ちのお嬢様のように自由にお金を使えるわけでもなく、

学ばないといけないこともたくさんあって

普通の裕福ではない国民の私よりも

たくさんご苦労されてきたことは馬鹿な私でも容易に想像できる。

制約がたくさんあった中で、困難もたくさんあるのに、

それでも結婚したいと思える彼に出会えたことは本当に素敵なことではないのだろうか?

これまで国のために人生を使われてきたことを考えたら、

たかが一億円程度の持参金くらい快くお渡しして、祝福できないのかなぁ、と疑問に思った。

結婚して持参金をもらったら終わりで自由になれるわけではなく、

眞子さまとして見られることは一生続くのだ。

 

私が眞子さまのお気持ちを想像できるはずもないのだが、

ご両親からの賛成を受けられず、国民からも反対される声があることは

すごくお辛いのだろうと思う。

 

親にも周囲にも国民にも反対されるご結婚。

私には猛反対の中結婚する勇気がない。

周りにどう思われるか?

何より、相手をずっと愛し続けられるか?

自信がないから本当にしたいことの選択ができない。

 

幸せな時も不幸せな時も寄り添い合えるかけがえのない存在。

結婚は自分たちの心を大切に守りながら生きていくために必要な選択。

 

今回眞子さまが発表された思いを

素直に素敵でかっこいいと思ったし、羨ましくも思った。

姓名判断って正しいの?

 

(これはただの疑問です。)

 

名前の画数で人生を占う姓名判断はどのくらい信じるものなのか?

あと数ヶ月で生まれてくる息子の名付けに苦戦中…

 

画数よりも漢字の意味と音で決めたいけれど

ネットでいくつか調べると大凶や凶になる(・・;)

そもそも、画数による運勢をネットという簡易的なもので調べている自分に疑問を抱く。

 

念のため、自分の名前を調べ結果と照らし合わせたり、

新渡戸稲造や福澤諭吉を調べたり。

自分の名前で結果を見てみると、

合っているような合っていないような…

ああいった占いの結果というのは

何となく該当しているように感じさせる書き方をしているような気もする。

 

 

生年月日や名前の画数で人生が大きく左右されるとしたら、

それはそれでとても怖い。

生まれた時点で幸せになれるかどうかがほぼ決まっていることになる。

 

自分の人生がうまく行かない時、

親がつけた名前の画数と、頑張って産んでもらった日のせいにできたら

これほど楽なことはない。

 

 

出生時に完璧な準備をするとしたら、

数ある姓名判断で大大吉の名前を用意し、

計画分娩で生年月日を決めるのだろうか?

 

姓名判断で画数が良いに越したことはないが

根拠のないグレーなものに

子どもの人生も、自分の人生も決められるのは嫌だと思った。

そして画数を合わせるために意味のない漢字を使うことも嫌だ。

 

自分が何も学んでいない姓名判断で子どもの名前をつけることに

大きな疑問を抱きながらも

ネット検索で凶と判断されると迷ってしまう。

 

人生を大凶、大吉、吉、凶と共に数行の解説で表すことなんてできるのだろうか?

人生はそんなに簡単なものではないし、

自分の努力や受け取り方で自分の歩みたい人生を歩んでいけると信じたい。

 

パパとママはこういう思いを込めて

あなたの名前をつけたんだよという想いを込めた名前をつけたい。

 

 

いつでも終わりを思い描くこと

 

先日、可能性はとても低いが死ぬかもしれないと思う恐怖を感じた出来事があった。

 

7つの習慣でコヴィー先生から

『終わりを思い描く』ことを教えてもらったが

今の私は目的地がわからない人生を歩んでおり、

今死んだら心残りや心配なことがたくさんあることを久しぶりに感じた。

 

死ぬかもしれないのか、と思いつつ目の前の仕事に追われていた時、

1人の少々年配の女性が「私はいつ死んでも悔いはない」とおっしゃった。

初めてお会いした方だったが、この方はすごいな、と思うのと同時に、

悔いはないとはっきり言える人生とはどんな人生なのだろうと思った。

今自分に置き換えて想像してみても、どう人生を歩めばそんなふうに言えるのかわからない。

一方で、「私は今死んだら悔いしかない」という事務員の女性の発言には笑えた。

 

今死んだら、何よりも心配なのは子どものことだと思う。

寂しい思いはしないか、生活に不自由しないか、幸せになってくれるか…

父親が一人で子育てをすることは、きっと世間一般で思われているより大変なことだ。

妊娠中で普段以上に情緒不安定なため、幼い子どもを残して死ぬことを少し考えただけで泣けてきた。

 

もし本当に、幼い子どもを残して死ぬことになった場合、自分にできることは何か。

お金を残すことと、このブログのように自分の考えや子どもへの思いを残すことくらいだろうか…

 

成人した子供にお金を残す気はないが、成人していない場合、私からは2000万程残したい。

お金に余裕があれば、母親亡き後に無理をして家事をせず外注できる。

お金のためだけに学生でアルバイトをする必要もないだろう。(バイトしたいなら反対はしない)

あまり乗り気ではなかった積立の生命保険的なものを契約する意欲が湧いてきた。

お金が有り余っていれば保険なんて必要ないが、そんなことは言っていられない。

 

もう一つは、私の考えや思いを残しておき、大きくなってから子どもが見られるようにしておくことだ。

私は結婚も子育ても自分には向いていないと思うことが多々あるが、本当に子どもには感謝しているし、

自分の生きるプレッシャーとなるほどに大切で、大切すぎて幸せであることを伝えたい。

これからは時々、思いを何処かに残しておこうと思う。

 

ここまで書いて、幼い我が子を残して死ぬことが確定したような暗い気分なので少し気持ちを切り替える…

 

 

見ず知らずの人に殺されることを考えた時、15年前の出来事を思い出した。

当時中学生で付き合っていた男の子がいた。

格好良くて運動が得意で面白くて、お世辞でも真面目とは言えない優しい子だった。

ある日、学校の近くのコンビニに刃物を持った強盗が入った。

犯人が捕まっていないため、帰る時は集団で帰るよう指示され、先生たちも見回りをしていた。

私は生徒会か何かで放課後用事があり、一人で帰らなければならなかった。

校門から自宅までは徒歩3分。近すぎて先生も全く心配しない。

用事が終わり少し怖いと思いながらも一人で帰ろうとした時、校門の近くに彼が座っていた。

心配だったようで、帰れという先生に反抗して1時間以上待っていてくれた。

普段は家が近すぎて一緒に帰ることはなかったので、一緒に帰ったのはこの日が初めてだった。

全く予想していなかったためか、すごく嬉しかったことを今も覚えている。

彼とは付き合うことになったきっかけも、別れることになった理由も幼稚で、

たかが中学生の恋愛だったかもしれないが、今でも鮮明に覚えている幸せな出来事だった…

 

 

 

今回、死ぬかもしれないという恐怖のおかげで人はいつでも死ぬ可能性があることを実感することができた。

ついでに15年も前の記憶が蘇り、幸せな気分にもなった。

 

結局物事は自分の受け取り方次第でプラスにもマイナスにもなる。

全てをプラスに受け取ることができると良いが、

マイナスに感じた時の気持ちを受け入れ俯瞰することができれば、それは前進していると言えると思う。

 

人生には終わりがあり、それはいつ来てもおかしくないことを忘れず、

毎日感謝して生きられるような人になりたい。

 

 

失敗してもいいという考え方

 

先日、娘とカニ玉を作った。

レトルトの具材に卵を混ぜて焼き、

これまたレトルトの餡をかけるだけの至極簡単な料理だった。

 

娘が卵を混ぜてフライパンに入れ、私がひっくり返そうとした時、

説明書きによるとまとまっているはずの卵が分散してフライパンの外へ…

飛んでった。(全てではない)

 

その時、

「ママ〜!!!フライパンの下〜!!!」

娘が興奮気味に叫んだ。

 

フライパンの下を見ると潰れたかに玉があった。私は娘に言われるまで気が付かなかった。

 

すると娘が、

「ママ!失敗してもいいんだよ!

みい(娘)だって、失敗してもいいんだよね!」

と言ってくれた。

さらに、こぼれたカニ玉を拭くために布巾を取ってくれた。

 

この考え方、意外と自然に出てくるものではないと思った。

 

4歳で、他人の失敗を責めず、認め励まし、

なおかつ自分も失敗して良いことを知っている。

 

失敗することは悪いことだと感じておらず、

失敗しても片付けをすれば良いという習慣が身に付いている。

 

失敗しても良い=一生懸命やる必要はない

という考え方はもっていない。

 

普段から、娘のスクールの先生方が

叱らず、認めながら接してくれている成果だと感じた。

本当に、頭が上がらない。

 

人は他人の失敗を責めることが多い。

責めるまではいかなくても内心、負の感情を抱くことは少なくない。

 

私も、会社の同僚が汚くした共用の机について上司から私が軽く嫌味を言われた時、

表面上は謝っていても内心は別のことを考えていた。

 

娘のように、「誰にでも失敗はある、自分も失敗するのだから」

という気持ちにはなれていなかった。

 

深く考えれば、当たり前のことなのに…

それぞれが考える完成度や頑張りは当たり前のように異なり、

得意不得意があることも当たり前で自分だって完璧な人間ではないのだ。

 

ただ、他人の失敗や不得意なところを受け入れることはできても、

自分の失敗や欠点を受け入れることは私にとってとても難しい。

 

直したいなら努力をするしかなく、それができないなら長所として受け入れるしか方法はないのに

いつまで経っても自分が至らないような焦燥感を抱いてしまう。

人に短所や欠点はなく、あるとしたら長所と伸び代だけだということを常に忘れないようにしたい。

 

 

レトルトのかに玉を失敗した情けない出来事だったが、(味はOK。味付けしていないので)

娘の素敵な考え方を知ることができてよかった。

 

彼女のそんな考え方をこれからも邪魔しないよう、接していきたいと思った。

 

 

作る意味が見出せないお弁当

 

旦那さんにお弁当を作る奥様は、なぜ毎日作れるのだろうか?

 

つわりが落ち着いたのでお弁当を再開したが、

苦痛で仕方がない。

 

 

最初の2日間は嫌がらせ弁当を参考に、

かわいくイライラをアピールするお弁当にしてみた。

これで少しでも会話になれば良いとも思った。

 

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しかし旦那からは一言も無し。(予想通り)

 

3日目、嫌がらせ弁当というのは通常より少し手間がかかるため

相手への愛情が必要であることに気がついた。

 

朝から海苔切ったり、前の日から何にするか考えたり、

やっぱり私には無理。

おかずを何にするか考えるだけでも時間がかかる。

 

↓もう普通のお弁当。

 

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できればお弁当が良いと言われたので

最近ストレスがすごいであろう旦那のために一応頑張って作るが、

作り甲斐がなさすぎて困っている。

 

昨日の会話。

私:「お弁当どう?」

旦那:無視

私:(少しキレ気味に)「お弁当どう?」

旦那:「普通。」

私:「普通に美味しい?」

旦那:「美味しいなんて言った?いつも普通。」

私:無言

 

きつすぎ。笑

これ以上、こいつと会話する価値はないと判断してその場を離れた。

冷静にその場を離れた自分を褒めてあげたい。

 

彼はなぜ、「おいしいよ」という一言を発することができないのだろうか。

 

確かに、おいしいと感動する料理ではないことは認めるが

普通ならおいしいと言ってはいけないのか。

おいしいと言って私を喜ばせたら彼は何か損をするのか。

 

 

 

なぜそれをやらなければならないか、

考えても自分では理解できない時、

一層のことそれをやめるか、理由を自分で見出すか、どちらかだと思う。

 

以前は仕事でもやる意味を感じられない時に

プラス思考で自分なりの意味を見出すことが得意だった。

 

上司からの指示の意味がわからないという若手社員にも、

意味を持って取り組むように伝えてきた。

 

簡単なことだったのに今はできない。

 

なぜ自分なりの意味を見出せなくなったのか、

考えてみたら旦那と仕事に共通して変わったことがあった。

 

どちらも自分自身が必要とされていない感覚を抱くようになり、

逆に私も諦めのような、もう終わったような感覚になっていた。

旦那と会社に対して、上手くやろうという気持ちはあっても

愛がなくなったのだ…

 

Love again

映画のように上手くいくとは限らないが

『試すこと』を習慣にしてみようと思う。

 

旦那のお弁当、作ってませんけど何か?

旦那さんのお弁当を作る奥さんは評価が高いらしい。

 

7月から始まった旦那のお弁当生活、

つわりで辛いという口実でお弁当作りをやめた。

 

それに対して上司から、

同じ事務所の社員の奥さんと比較される。

その奥さんは、毎日お弁当を作り、

単身赴任の妊娠中でも1週間分食事を作って旦那さんに週末渡していたらしい。

 

すばらしく、できた奥さんだと思う。

 

でも、それを比較されても困る。

別に困らないけど何回も言われて上司と上司のネタにされ、

見習えと言われると多少気にする。

 

 

私がお弁当を作りたくない理由。

単純に、朝からの料理がつわりを増すから…

 

お弁当作りの時間があるなら、早く出勤した方が良いから…

(働いた時間は昼食代くらいになるし、

もうやり方が分かるお弁当作りより仕事を覚えたい。)

 

優しい優しいうちの旦那様はお弁当の感想なんて一切ないし、

食事の感想を聞いても「普通」というお言葉かご指摘以外発しない。

作っても私のお小遣いは増えないからさらに作り甲斐なし…

全くワクワクしない。

 

お弁当を作らない理由は私なりに色々あるんです、所長。

私にとってお弁当作りって、時間とコストだけを考えるとメリットはないんです…

 

でも最近知ったのは、お弁当は朝作らなくても良いということ。

世の中のできる奥さんは、夕食を取り分けたりして上手くやりくりされているらしい。

お弁当は朝作るもので、きれいに作るものだという幼い頃からの固定観念が無駄だった。

 

それでも、喜ばれないお弁当、もう既に結果が分かることに私は興味が持てないので

上司達からダメな嫁のレッテルを貼られても堂々としていようと思う。

 

 

 

くだらないことでいじられる関係性は至極面倒だが、

メンターが教えてくれた会社の人との関係性(何気ない会話ができる関係)を築くことができているという点においては良いのかもしれない。

 

またお弁当作りへの興味と余裕が持てるようになったら、作ろうと思う。

次作るなら嫌がらせ弁当しかない。

先が見えなくても誤魔化し続ける

 

仕事にしても、男女関係にしても

覚悟や希望が持てないのに誤魔化しながら続けることは

見て見ぬ振りをしている傷を広げてしまうような気がする。

 

何かが違うと思いながら過ごす毎日は意外と辛い。

 

やり切ったー!と言えるまで続けられればその継続には意味があると思う。

しかし行き先もわからないまま続けることは、

ここまでやったのに…という執着心を大きくする。

 

 

幸せにしたい人がいるのに、

現状に満足していないのに、

勇気を出して挑戦しないことにも責任がある。

という言葉を聞いた時、

私は逃げてばかりいることに気が付いた。

 

傷付く前に壁を作り周囲を拒絶して逃げることも

子どもの頃からの得意技だ。

 

どうしたら逃げずに頑張ることができるのだろうか?

 

逃げられない環境に身を置くこと、

そしてどうしても叶えたい未来を描くことが

前を見て歩き続ける方法だということは頭では分かる。

 

 

 

 

今日上司が

できるか?と聞いてくれた仕事があった。

 

今の自分の歳では簡単にできるはずのことなのに、

自信が無くて返事を濁した自分が情けなかった。

 

黙っていれば上司が自分でやると言われそうだった。

"部下がやらないから自分でやってきた"

という発言をこの上司から何度か聞いていた。

教える手間をかけるのも申し訳ない。

でも、今が一番若い。

忘れたことやできないことを後悔しても仕方ないので

やりたいです、と言ってみた。

 

今さら建築の仕事を覚えても手遅れだろうと思いながら…

それでも必要としてもらえることは一生懸命やろうという気持ちと、

それ以上にやる気がないやつは不要だと思われたくないという、完全な承認欲求だった。

 

出てしまった、承認欲求。

=自立できていない証拠

 

でも、必要としてもらえることを逃げずに頑張ろうと思うことができた自分を認める。

一方で、先なんて全く見えていないのに

また今日も誤魔化しながら過ごしてしまったことを反省する。

 

 

 

忙しい、忙しいという人ほど大して忙しくない現実

自分の大変さをアピールする会社の方々がいる。

何かを確認すると、

「今さー、忙しくて…」


またか、と思いながらも相手の気持ちに共感し、忙しくて大変なんだと自分を納得させる。

ただ、「忙しい、忙しい」という人ほど私には忙しそうに見えない。
くだらない話に時間を費やすことに対しては、何も感じていないように見える。

私は忙しいアピールをしているその時間に、一つでも進めてくれないか?
と思ってしまう。

何も生み出さない会話に費やすその時間は、
自分の時間だけでなく私の時間まで奪っていることをきっと彼らは気付いていない。


メンターは人間関係を築くためには普段の何気無い会話も必要だと教えてくれた。

何となくは理解できても、会話の途中で無駄だと感じてしまう私は、きっと視点が低いのだと思う。

「無駄話はできるのに、忙しいと言えるその感覚がわからない。
そんなに暇なら早く仕事して。」

これが私の本音であり、この矛盾を矛盾と感じていない彼らを少し羨ましくも思う。


仕事に関係のない話を楽しみつつ、それぞれが仕事に対して責任を持っているチーム。
簡単なようで程遠い。

辞めたいけど辞められない

数年前から、この仕事を辞めたいと思いながら、

でもやっぱり続けたいと思いながら新卒から約10年になります。

 

初めて辞めたいと思ったのは2年目の終わり。

次に辞めたいと思ったのは4年目の終わり。

 

実際に正社員を辞めたのが6年目?

(大きな要因は子育てのため)

正社員を辞めてそのまま契約社員にしてもらい、今に至ります。

 

契約社員になると、

研修をうけられなくなったり、賞与がなくなったり、昇進がなくなるなど、

たくさん制限がかかることは分かっていました。

 

それでも、会社や仕事は好きだったので続けたいという思いがあり、

実力をつけること自体では、正社員も契約社員も変わらないだろうと甘く考えていました。

 

でも、現実はそんなに甘くはなかった…

 

社員がやる気がない仕事をやらせてもらえる日々。

 

 

HDDの接続、

データの変換やコピー、

パソコンの設定、

タブレットの不具合確認、

ソフトの操作説明  など。

 

私だって分からないから問い合わせたり調べたりするのに、

彼らはなぜ聞いてくれるのか?

自分でやるのが面倒だからということ以外、思い浮かびませんでした。

あとは自分達は忙しいけど、私は暇だという見方。(ある意味正しいのですが…)

自分でやれ、と思います。

でも、頼まれたことを断った時、できなかった時、

自分には価値がないような気がして断れない私が悪い(・・;)

 

 

それから、

意味のわからない図面作成の単純作業や書式の修正、確認依頼。

もう少し自分で考えてほしいと思うような指示。

今日も、そのくらい自分で考えてもらえないですか?と言いたくなりました。

 

 

あとは教育。

教育は重要だと分かっているけど、

任せてもらえるほどの実力はなく、権限もない。

若手社員達から悩みや不安を聞き出したことを上司に報告し、そこからは上司任せ。

私は告げ口をしているだけなのかもしれません。

私が先日面談した社員から、

ストレスで体調が良くないとメールが来ましたが、どうしたら良いか分からない。

でもそれを相談できる上司がいない。

そして、メールを送ってきた本人に返信しても無視。笑

 

上司がいないため、いつどこから仕事が来るかわからない状況で、相談する上司もいません。

 

 

先日、仕事がほとんどない一日がありました。

あったのは、

「準備出来次第説明するわ」

という2人の上司からの予告指示。

 

量は?期限は?いつ指示くれるの?

聞きたいことはありましたが、最近は質問する気が失せてしまいます。

 

量や期限を知ったところで最近は全く意味がないのと、

上司達と会話をしたくないからです。

 

 

アドラー心理学や、いろんな考え方を知った今、

前向きに考える方法はわかりますが、

なんか疲れてしまってどうしたら良いのか分かりません。

 

『会社を辞める勇気』

を持てない今は、辞める時期ではないのでしょう。

このご時世、雇ってもらっているだけでも感謝しなければなりません。

 

でも今は、そんなことよりも嫌だなぁという気持ちや不安ばかりが増えてしまい、

気を抜くと泣きそうになっている自分がいます。

 

明日は一応家を出て会社休もうかな。

疲れました。

 

 

 

 

上司に褒められると思うこと 自らの謙虚さの欠如

 

先日、工事で必要な届出のために労働基準監督署へ行きました。

 

地図を見て目的地に行くことが苦手な私は、早々に諦めてタクシーに乗ることにしました。

 

タクシーだと余計な経費がかかるので、ちょうど連絡をとっていた上司に報告。

 

すると、

「さすが!臨機応変に対応できてるね」

のようなことを言われました。

忘れてしまいましたがこのようなことを言ってくださったと思います。

 

その時、私の頭の中に疑問が…

 

馬鹿にされてるのか?

褒めてもらってるのか?

 

さぁ、どっち…?

 

 

メンターからは褒めてもらったら、素直に喜ぶ謙虚さや素直さが必要だと言われています。

 

自分に自信がない場合、他者から褒めてもらっても素直に喜べない場合がありますが、

今は褒めてもらえることに対してまずは感謝しようと思っています。

 

 

しかし、地図があっても道がわからずタクシーを使う部下に対して、

さすが!

と褒める意図は一体何なのでしょうか?

 

 

馬鹿にされてるのか?

そんなことでタクシー使うな!と言われてるのか?

褒め言葉を疑ってしまう私はまだまだ謙虚さが足りないと思いました。

 

部下の教育について学ぶようになってから、上司が変なことを褒めるようになったので

もしかしたら上司は承認を意識してくれているのかもしれません。

 

こんな私でも褒めてくださることをまず感謝しないといけませんね。

 

 

褒めてもらえると素直に喜べる上司と、褒めてもらっても本心なのか疑いたくなる上司。

怒られても素直に聴ける上司と、怒られると嫌な気持ちになり逆効果になる上司。

 

同じ内容で同じ言い方でも、それを発した人によって、

相手の捉え方が変わってしまいます。

 

上司から部下、部下から上司、同僚や同期同士、さらには夫婦や親子であっても、

普段からの信用や信頼がなければ正しく伝わらないだけでなく、

何が言いたいのかも分からないのだと思います。

 

"あなたが言うなら"

そんな風に話を聞いてもらえるような人になりたいと思いました。

 

 

 

本日もありがとうございました(^^)

素敵な一日になりますように…

 

 

 

 

 

 

 

それは相手のことを考えた発言なのか? 会社の人に対して思う疑問

 

最近なのか、以前からなのか…

社内には上司から部下、同期同士で無駄に相手を不安にさせる方がいます。

 

例えば、異動が決まった部下に対して

次の上司や職場の悪い情報だけを伝え、新しい職場への不安を増す人達。

 

これから会社の事情により一旦収入が大きく下がる部下とその妻に対して

生活を心配するような発言をする上司達。

 

 

これらの発言って、何のために、誰のためにしてるの?と、すごく疑問に思います。

 

もし本当に相手が異動した後の心配をしているなら、

異動後も自分がフォローすると伝えることもできるし、異動先を変える行動もできるのではないでしょうか?

 

もし本当に収入が下がることを本当に心配しているなら、

会社都合でいきなり収入が下がらないよう、仕組みを変えるような行動をするのではないでしょうか?

 

これらが不可能だとしても、

ただ相手を不安にさせるだけの発言なら必要ないと思います。 

 

相手のことは考えず、不安にさせることを自分が楽しむためだったり、

どこかで優位に立つためだったり、

心配をしている上司感を出すためだったり…

 

おそらく深く考えずにするその発言は何のためなのか、教えてほしいです。

 

 

先日、異動前に周りの人の言葉で不安だと教えてくれた子に伝えたこと。

 

「相手は本気で自分を思って言ってくれているのか、ただ面白がって言っているのか、

それは自分でよく考えないといけないよ」

 

不安になる気持ちはわかりますが、

周りの意見はしっかりと聴きながら、でも自分で取捨選択することが大切だと思います。

違う視点で見れば、良いことだってあります。

本当かどうか分からない情報を、鵜呑みにしてほしくないと思いました。

 

 

しかし、後輩へ偉そうなことを言っておきながら、

今後明らかに下がる旦那の収入に対して、妻である私がもっと働けと上司から言われた言葉が

心に引っかかってモヤモヤしています。

でもよく考えれば…

今の会社での私の収入では足りないと上司たちが言うなら、勇気を出して転職するだけですね。

 

 

無責任な発言で振り回すな!というよりは、

どうか皆さん、本当に相手を思っていないのなら、不安になるような事は言わないでください。

とお願いしたいです。

 

 

 

本日もありがとうございました(^^)

素敵な一日になりますように…